弘道館について
概要
- 弘道館鳥瞰図
(1800-1860年)
旧水戸藩の藩校である弘道館(こうどうかん)は、第9代藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。
弘道館建学の精神は、天保9年(1838年)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されています。弘道館は、天保12年(1841年)8月1日に仮開館式が挙行され、さらに、15年あまりの年月を要し、安政4年(1857年)5月9日に本開館式の日を迎えました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。敷地内には、正庁(学校御殿)・至善堂の他に文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられていました。卒業の制度はありませんので、生涯教育といえます。学問と武芸の両方が重視され、学問では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武芸では剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていました。また、医者を養成する医学館では、医学の教授のほか、種痘や製薬なども実施されていました。
その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872年)の「学制」発布により弘道館は閉鎖され、県庁舎や学校の仮校舎として使用されました。幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定され、現在約3.4haの区域が「旧弘道館」として国の特別史跡に指定されています。区域内には約60品種800本の梅が植えられており、梅の名所としても有名です。
平成27年4月には、「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」の構成文化財として、文化庁が創設した 日本遺産に認定されました。
歴史
水戸藩の成立
水戸藩は、慶長14年(1609年)徳川家康の第11子頼房が水戸に入封して成立しました。水戸藩の基礎は、初代頼房から2代光圀の時代に築かれ、城下町の建設、家臣団の構成、藩の支配体制などが整えられました。特に光圀は、藩政に力を注いだだけでなく『大日本史』の編纂など大規模な文化事業を展開しました。
徳川斉昭と藩政改革
第9代藩主徳川斉昭は、崩れゆく封建体制と困窮した藩財政の立直しをはかるため、「天保の改革」とよばれる藩政改革を推し進めました。改革の要点は、経界の義(田畑の経界(境界)を正す意味から全領検地のこと)、土着の義(藩士を水戸城下から農村に移して土着させ武備の充実をはかること)、学校の義(藩校や郷校を建設すること)、惣交代の義(藩主や家臣の一部が江戸に常住している「定府制」を廃止すること)の4項目でした。弘化元年(1844年)、斉昭は社寺改革など行き過ぎた政策を理由に幕府から致仕謹慎を命じられますが、嘉永2年(1849年)水戸藩政への参与を許され、同6年(1853年)ペリー来航を機に幕府の海防参与となり、ついで政務参与になります。しかし、攘夷論を強調した斉昭は、幕閣と意見があわず、安政4年(1857年)に免ぜられます。この間、斉昭は水戸藩の「安政の改革」を進め、軍備の充実と教育の振興を柱に、農兵の設置、反射炉の建設、郷校の増設など諸政策を実施しました。
藩校の設立
藩政改革のなかで特に斉昭が意を注いだのが藩校弘道館(こうどうかん)の建設でした。斉昭は藩主就任後はじめて水戸に帰国(天保4年)した際、城中にあった『大日本史』の編纂所「彰考館」を訪ねるなど、藩校建設に積極的な姿勢を示しました。この頃は、天保飢饉で不安が高まり、藩財政もさらに困窮化し、藩校の設立には反対意見も多くありましたが、斉昭は方針を変えず、天保6年(1835年)に幕府から向こう5年間、毎年5000両の金が下賜されることが内定すると計画の実行に踏み切りました。
弘道館が建設された水戸城三の丸の地には、もとは重臣たちの屋敷がありました。重臣たちの屋敷を移転させてまで、城内三の丸に藩校を建てたことからも、斉昭の学問による人材育成への意欲が分かります。
- 弘道館建設前
天保初期の水戸城絵図 - 弘道館建設後
「水府家御屋敷割図」(茨城大学図書館所蔵、文久元年)
弘道館の開館と拡充
弘道館の建設工事は、天保11年(1840年)から開始され、翌12年7月に一応完了し、8月1日ついに仮開館の日を迎えます。施設の整備は引き続き行われ、天保14年6月には医学館が新設されました。天保12年の開館を仮開館と呼んでいるのは、学則など制度上の不備が残っていたこともありますが、特に鹿島神社への鹿島神宮からの分祀遷座と孔子廟への孔子神位の安置が共に済んでいなかったことによります。本開館は安政4年(1857年)5月9日、仮開館から15年あまりの年月を要してかなえられました。
弘道館の教育制度
弘道館の入学年齢は15歳です。それまでは藩指定の家塾で素読を学び、15歳になると家塾の教師が保証人となって入学願を提出し、指定の日に登館して『論語』や『孝経』などから出題される講読の試験を受け、合格すれば講習生として入学が許可されました。入学の許可は、3・8日または5・10日に随時実施されていましたが、安政4年(1857年)の本開館からは入学式次第が定められました。生涯教育を原則とし、卒業はなく、40歳以上になると通学は任意とされました。身分別に毎月の最低の出席日数が、15日間、12日間、10日間、8日間と定められており、身分の高い者ほど登館すべき日数が多くなっていました。
学科は、儒学や歴史のほかに歌学、天文、数学、地図、音楽等の選択科目がありました。
武道については、江戸の剣客斎藤弥九郎、千葉周作などが特別講師のようなかたちで招かれ、さらに金子健四郎(無念流)、海保帆平(一刀流)などの剣客を召し抱えて師範とし、剣術、槍術はもとより、兵学、射術、馬術、水術などの多彩な科目を教授しました。
試験は、月2回の試文の試験のほかに年1回秋の文武大試験がありました。文武大試験は藩主自らが臨席して行なわれ、成績優秀者は表彰を受けました。文館の生徒数は、多いときで1,000人位といわれています。
独自の教育方針で他藩にまで多くの影響を与え、人材の育成に貢献した弘道館も、明治5年(1872年)8月の「学制」発布により閉館となりました。
弘道館の閉館と近代のあゆみ
幕末維新期の水戸藩は、藩内抗争が広がり、弘道館の教育にも影響が及びました。明治元年(1868年)10月1日、藩内抗争の最後の激戦といわれる弘道館の戦いが起こり、文館、武館、医学館などが焼失しました。その後、明治5年(1872年)8月の「学制」発布により、弘道館は30年余にわたる藩校としての役割を終えました。
明治・大正期の弘道館は、茨城県庁舎や幼稚園、小学校や高等女学校の仮校舎として使用されました。敷地は明治14年(1881年)に市民の切望により公園認可を受け、大正11年(1922年)に史跡指定、戦後の昭和27年(1952年)には特別史跡指定、同39年(1964年)には創建当時から残る正門・正庁・至善堂が重要文化財指定を受け、藩校当時の姿を今に伝えています。
年表
- 文政12年(1829年)
- 10月
- 徳川斉昭が水戸藩9代藩主となる。
- 天保11年(1840年)
- 3月
- 弘道館の建設が着手される。
- 天保12年(1841年)
- 7月
- 弘道館の建設が竣工。
- 8月1日
- 仮開館式が挙行される。
- 天保13年(1842年)
- 7月1日
- 偕楽園が開園される。
- 天保14年(1843年)
- 6月
- 弘道館内に医学館が開設される。
- 安政 4年(1857年)
- 5月9日
- 弘道館の本開館式が挙行される。
- 万延 元年(1860年)
- 8月
- 徳川斉昭が水戸城中で没する。
- 明治 元年(1868年)
- 4月
- 徳川慶喜が弘道館で謹慎する。(~同年7月 )
- 10月
- 弘道館の戦いで文館・武館・医学館などを焼失する。
- 明治 4年(1871年)
- 7月
- 廃藩置県により水戸藩が廃止される。
弘道館は陸軍省所轄(国有)となる。
- 明治 5年(1872年)
- 1月
- 弘道館に茨城県庁が置かれる。(~明治15年)
- 8月
- 「学制」が発布
- 12月
- 弘道館が閉鎖される。
- 明治 8年(1875年)
- 太政官布達により公園に指定される。
- 明治14年(1881年)
- 3月
- 茨城県の管理となる。
- 5月
- 弘道館跡地の公園認可。
- 明治22年(1889年)
- 1月
- 水戸幼稚園園舎として使用される。(~大正10年)
- 明治25年(1892年)
- 10月
- 管理が茨城県から水戸市に移管される。
- 明治27年(1894年)
- 4月
- 水戸市高等小学校(現水戸市立三の丸小学校)の分教室として使用される。(~明治28年)
- 明治33年(1900年)
- 4月
- 茨城県高等女学校(現茨城県立水戸第二高等学校)の仮校舎として使用される。(~明治36年)
- 明治42年(1909年)
- 11月
- 水戸市高等小学校(現水戸市立三の丸小学校)へ敷地の一部が分割譲渡される。
- 大正9年(1920年)
- 4月
- 公園管理規則制定(県告示153号)。管理が水戸市から茨城県へ移管される。
- 大正11年(1922年)
- 3月8日
- 「旧弘道館」が史跡に指定される(官報第2877号・内務省第49号)。
- 昭和 7年(1932年)
- 2月
- 県営公園管理条例(県告示第76号)等制定、「弘道館公園」となる。
- 昭和20年(1945年)
- 8月2日
- 水戸空襲で八卦堂・孔子廟・鹿島神社などを焼失する。
- 昭和27年(1952年)
- 3月29日
- 「旧弘道館」が特別史跡に指定される(文化財保護法)。
- 昭和28年(1953年)
- 11月
- 八卦堂復元工事竣工。
- 昭和32年(1957年)
- 6月
- 茨城県都市公園条例(条例第26号)制定、都市公園に指定される。
- 昭和34年(1959年)
- 11月
- 特別史跡旧弘道館修理工事(昭和の大修理)が始まる。昭和38年3月 竣工。
- 昭和39年(1964年)
- 5月26日
- 正門・正庁・至善堂が重要文化財に指定される(文化財保護法)。
- 昭和44年(1969年)
- 8月
- 孔子廟復元工事が始まる。(昭和45年10月竣工)
- 昭和49年(1974年)
- 9月8日
- 茨城県国民体育大会に際し、皇太子皇太子妃両殿下行啓。
- 10月20日
- 茨城県国民体育大会に際し、天皇皇后両陛下行幸啓。
- 平成18年(2006年)
- 10月5日
- 全国生涯学習フェスティバルに際し、秋篠宮殿下お成り。
- 平成23年(2011年)
- 3月11日
- 東日本大震災発生。翌12日から閉館。
- 10月8日
- 部分公開が開始される。
- 11月30日
- 第1回旧弘道館復旧整備検討委員会が開催される。
- 平成24年(2012年)
- 2月18日
- 第10回全国藩校サミットin水戸が開催される。
- 4月3日
- 築地塀修復工事開始。11月28日 竣工。
- 5月23日
- 孔子廟復旧工事開始。12月18日 竣工。
- 12月17日
- 旧弘道館災害復旧工事開始。
- 平成25年(2013年)
- 6月19日
- 国老詰所他耐震補強工事開始。
- 11月18日
- 弘道館記碑復旧。
- 平成26年(2014年)
- 3月27日
- 弘道館全面復旧。
- 平成27年(2015年)
- 4月24日
- 弘道館が日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」(文化庁)に認定される
- 平成29年(2017年)
- 3月
- 国指定特別史跡「旧弘道館」保存活用計画策定。
所蔵資料
扁額(へんがく)
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「弘道館」扁額
- 徳川斉昭の書で表面に「弘道館」、裏面に「天保十二年仲冬日書」と刻まれています。天保12年(1841年)8月1日の仮開館式を終えた後の仲冬(11月)に書かれ、正庁玄関に掲げられました。大きさは縦85㎝、横50.5㎝で玄関にふさわしい風格のある扁額です。
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「游於藝」扁額
- この扁額は、対試場に面した正庁の長押に掲げられています。縦90㎝、横248㎝の大きな欅板に斉昭書で「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれています。「游於藝」は、『論語』述而篇の一節「子曰 志於道 據於徳 依於仁 游於藝」(子曰く 道に志し 徳に拠り 仁に依り 芸に遊ぶ)により、「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味があります。「游於藝」の「藝」は六芸(りくげい)で、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をさします。
絵図
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弘道館全図
- 弘道館全図は、軸装で本紙部分の大きさは縦182㎝、横160㎝。学舎の間取りまでが詳細に描かれた平面図です。明治32年(1899年)に樫村甫によって模写されました。正庁(学校御殿)・至善堂の北側に文館、南側に武館を配して「文武一致」を、聖域とされた区域に鹿島神社と孔子廟を併置して「神儒一致」を表すなど、建物の配置で建学の精神が示されていることが分かります。また、弘道館記碑を納める八卦堂が敷地中央に配置されていることも、この全図から明瞭にみることができます。
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弘道館鳥瞰図
- 鳥瞰図(ちょうかんず)とは、高い所から見おろしたように描いた風景図のことです。弘道館鳥瞰図は、昭和40年(1965年)に橋本東岳(とうがく)によって模写されました。弘道館は、藩内抗争や空襲によって多くの建造物を焼失しており、この資料は弘道館全図とともに藩校当時の弘道館の全景を知る貴重資料です。
拓本
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弘道館記碑拓本
- 弘道館記碑拓本は、正庁正席の間の床の間にかけられています。建学の精神を示した「弘道館記」は、徳川斉昭の原案をもとに、藤田東湖が起草し、さらに学者らによる検討を経て天保9年(1838年)に斉昭の名で公表されました。「弘道館記」は、領内真弓山(現在の常陸太田市)から切り出された寒水石(大理石)に刻まれ、弘道館の敷地中央に配置された八卦堂に納められました。
- 「弘道館記」ダウンロードはこちら
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要石歌碑拓本
- 弘道館記碑とともに建学の精神を表す要石歌碑の拓本です。石碑は孔子廟の南側に建っています。斉昭詠「行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家流」(行く末も 踏みなたがへそ あきつ島 大和の道ぞ 要なりける)の歌が、自身の文字で書かれています。「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏みちがえることがあってはならない」という歌意があります。
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賛天堂記拓本
- 「賛天堂記」は、天保14年(1843年)に開設された医学館に掲げられていました。医学館開設の主旨を記したもので、外国に頼らず国内で良薬を製することの重要性を説くとともに、医学館から日本のあるべき医学・医療体制を発信したいという大きな抱負が示されています。「賛天(さんてん)」とは、四書のひとつ「中庸」の「能く物の性を尽くせば、則ち以て天下の化育を賛(たす)くべし」(よく物の性をまっとうすれば、天地の生育する働きを助けることになる)という一節によっています。現在、「賛天堂記」の版木は確認されていませんので、この拓本が唯一の資料になっています。
- 「賛天堂記」ダウンロードはこちら
印鑑・版木
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蔵書印「弘道館印」
- 蔵書印「弘道館印」は鋳造で、縦8.5㎝、横8.5㎝、重量は約2450gです。朱肉付きの収納箱とともに保管されています。弘道館運営上の公印というよりは、蔵書印として使用されていたものと思われます。現在、弘道館事務所が所蔵する書籍のうち、「弘道館印」の蔵書印が確認できるものは54冊です。
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「喪祭式」版木と同版本
- 弘道館の文館の一角には、編集方・彫刻場・帳とじ場など、書籍の出版や編集の事業が行われていた場所がありました。弘道館事務所には、当時使用されていた版木のうち117枚が保管されています。写真は「喪祭式(そうさいしき)」の版木と、版木で摺られた版本です。版本には、「弘道館印」という蔵書印も朱色で押されています。
他に、「弘道館記」「弘道館学則」「孝経」「迪彝篇」「草偃和言」の版木が保管されています。
- 弘道館の文館の一角には、編集方・彫刻場・帳とじ場など、書籍の出版や編集の事業が行われていた場所がありました。弘道館事務所には、当時使用されていた版木のうち117枚が保管されています。写真は「喪祭式(そうさいしき)」の版木と、版木で摺られた版本です。版本には、「弘道館印」という蔵書印も朱色で押されています。
文書
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弘道館書目
- 「弘道館書目」は藩校当時の蔵書目録です。この蔵書目録には、6,000冊を超える書籍が記されています。膨大な数にのぼる蔵書は、明治元年(1868年)の弘道館の戦いで一部を焼失し、さらに昭和20年(1945年)8月の終戦後の混乱で多くを焼失・散逸してしまいました。焼失・散逸を免れた蔵書のうち、現存が確認できるのは約60冊です。
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蕃痧病の手当并治方
- 「蕃痧病の手当并治方」(ばんさびょうのてあてならびになおしかた)は、「水府医学館」(弘道館の医学館)が安政6年(1859年)に刊行しました。安政年間に流行したコレラ病の対策として水戸領内に頒布されたものです。当時、コレラ病は命にかかわる病気でした。この「蕃痧病の手当并治方」には、一般の人々でも身近なもので出来るコレラ病の予防法が書かれています。
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異国船の図(安政二乙卯雑書)
- 安政年間に水戸領内の海岸線に異国船が出没した際の様子を描いたものです。幕末になると水戸領内の海岸線にこの絵のような異国船が出没するようになりました。このような外国からの脅威に対し、徳川斉昭は、「日本の独立を守り、国や藩を発展させるためには、すぐれた人材を育てることが大切である」と考え、藩校弘道館を建設しました。
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青門肖像(模写・部分)
- 青門肖像(せいもんしょうぞう)は、青山拙齋(せっさい)塾の門下生91人の肖像画集です。水戸城下には多くの塾があり、この塾で基礎学力をつけた藩士の子弟たちが弘道館に入学しました。この肖像画集には、一人一人の門下生が表情豊かに描かれています。数人の頬にみえる斑点は、当時流行していた痘瘡(天然痘)の跡です。
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大日本史
- 「大日本史」は、第2代藩主徳川光圀の命により、明暦3年(1657年)に編纂に着手し、明治39年(1906年)に完成した歴史書です。中国の歴史書にならい、人物を中心に著す紀伝体で書かれています。「本紀」・「列伝」・「志」・「表」の402巻からなり、神武天皇から後小松天皇まで100代にわたる天皇の功績が記されています。
弘道館で展示しているものは、「本紀」・「列伝」243巻100冊の嘉永版「大日本史」です。
- 「大日本史」は、第2代藩主徳川光圀の命により、明暦3年(1657年)に編纂に着手し、明治39年(1906年)に完成した歴史書です。中国の歴史書にならい、人物を中心に著す紀伝体で書かれています。「本紀」・「列伝」・「志」・「表」の402巻からなり、神武天皇から後小松天皇まで100代にわたる天皇の功績が記されています。
書跡
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二大字「尊攘」
- 「尊攘(そんじょう)」の書は、安政3年(1856年)に徳川斉昭の命により、水戸藩医で能書家として知られていた松延年(まつのべ ねん)が書いたものです。
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吉田松陰自筆漢詩
- 明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰(1830年~1859年、長州藩士)は、東北奥羽地方へ遊学の途中、嘉永4年(1851年)12月19日から同5年1月20日まで水戸に滞在しました。松陰22歳の時です。水戸に滞在中の松陰は、会沢正志斎や豊田天功ら水戸藩の学者に教えをうけました。この資料は、水戸での宿泊先であった永井政助家の子息で、年齢が近く意気投合した芳之介に松陰が贈った惜別の詩です。
古写真
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弘道館全景写真
- この写真は、フランス将軍ルコンテによって明治8年(1875年)に撮影されたといわれる弘道館全景写真です。写真原版は石黒コレクション保存会に所蔵されています。弘道館に関する写真としては、現存する最も古い写真です。
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弘道館に県庁が置かれていた頃の写真
- 明治5年(1872年)から約10年間、弘道館に県庁がおかれていました。この写真は、正門に「茨城県庁」と書かれた看板が掲げられた貴重な写真です。また、県庁がおかれていた時期は、正門の前の階段がスロープになっていたことが分かります。
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大手橋と弘道館の写真
- 大手橋と弘道館を撮影した古写真です。大手橋の上を2台の人力車が走り、弘道館前には着物姿の人が写っています。大正から昭和初期に撮影された写真だと思われます。
保存活用計画
国指定特別史跡「旧弘道館」保存活用計画
弘道館Q&A
Q1 弘道館はどういうところ?
弘道館は、江戸時代の天保12年(1841年)に水戸藩の第9代藩主徳川斉昭が創設した藩の学校です。藩の学校なので藩校といいました。藩校は藩士の子弟が入学し、学問・武芸などを学んでいました。
Q2 どんな目的で建てられたの?
江戸時代の終わりの頃になると、外国(イギリス・アメリカ・フランス・ロシアなど)が日本に対して開国(貿易)するよう強く要求してきました。中国では外国と戦争が起こりましたので、日本は外国の船を追い払おうとしました。徳川斉昭も外国の侵略から日本の独立を守り、発展させることが大切と考え、そのためには優れた人材を育てることが必要であると考えて弘道館を建設しました。
Q3 弘道館の名称はどうしてつけられたの?
「弘道館」という名称は、「弘道館記」冒頭の「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり。」という文章からつけられました。「弘道」という言葉は、「論語」衛霊公(えいれいこう)第十五の「子曰く、人能(よ)く道を弘む。道人を弘むるに非(あら)ず」に拠っています。また「弘道館」という名称は、当時すでに佐賀藩(佐賀県)、福山藩(広島県)、彦根藩(滋賀県)など全国5つの藩校で使用されていました。水戸藩の弘道館はその建学精神と教育内容で全国に名をひろめました。
Q4 どれくらいの大きさだったの?
弘道館の面積は約32,000坪(約10.5ha)で、日本で最大規模の藩校でした。
次いで福山藩(広島県福山市)の誠之館が23,704坪、金沢藩(石川県金沢市)の明倫堂・経武館が18,256坪、萩藩(山口県萩市)の明倫館が15,184坪でした。藩校当時の弘道館は、現在の水戸市立三の丸小学校、茨城県三の丸庁舎、茨城県立図書館まで広がる大きさでした。
Q5 弘道館は、何年くらいかけてつくられたのですか?
完成して開館したのが天保12年(1841年)8月1日ですが、その約1年前の天保11年3月に工事に着手したと記録されています。開館したときにはすべての建物が完成していたわけではなく、『水戸市史中巻(三)』によると約5年をかけて工事が完了しました。
Q6 どんな事を教えていたの?
弘道館は、学問と武芸の両方とも大切と考え、管理棟である正庁・至善堂をはさんで学問を学ぶ文館と武術を修得する武館を建てました。学問では儒学(中国の政治・道徳の学問)、礼儀、歴史、天文(暦)、数学、地図、和歌、音楽など、武術では剣術、槍、柔術、兵学、鉄砲や大砲の射撃、馬術、水泳などを教えました。医学を学ぶ医学館もあり、薬草から薬をつくったり、牛を飼い牛乳からバターをつくるなどいろいろな研究もしていました。その幅広い教育内容は今の総合大学のようなものでした。
Q7 どのような人達が学んでいたの?
水戸藩の藩士とその子供達が学んでいました。入学年齢は15歳です。それまでは城下の家塾(藩の費用で運営されていた塾)で初等教育を修め、一定の学力が身についたところで、家塾の先生が弘道館へ入学の申込みをしました。武術が無試験だったのに対し、学問は入学試験がありました。試験は、月2回の試文とよばれる試験と年1回秋の文武大試験がありました。なお、卒業はありませんでした。江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜は、弘道館ができた5歳の時から11歳までここで学びました。
Q8 弘道館の試験は、どういうものですか?
文武兼備を理想とする弘道館では、「朝文夕武(ちょうぶんせきぶ)の法」と称して、午前は文館で学問を修め、午後は武館で武道を鍛えることを日課としました。学生の評価は、学問の試験の点数だけではなく、文武の総合評価によって成績の段階がつけられました。
Q9 学費はあったのですか?
無料です。久慈郡太田村(常陸太田市)周辺に5,000石の土地を「学田」に指定し、そこからあがる年貢米が運営費にあてられました。
Q10 弘道館の先生の人数は何人でしたか?
年代によって多少の変動はありましたが、文館35名、武館38名、医学館10名のほかに天文方などを含めて合計100名前後の先生がいたといわれています。
そのほかに武術を教える武館には、先生を補助する「手添え」(てぞえ)という人たちが100名から150名位いたようです。
Q11 弘道館の生徒数は、何人くらいいたのでしょうか?
学問をする文館には、約1,000人の生徒がいたといわれています。ただし、登館日が藩士の身分によって、1ヵ月のうち15日間、12日間、10日間、8日間の4つに分けられていましたので、1,000人の生徒が一同に集まることはなかったようです。
Q12 医学館ではどういう人が学んでいたのですか?
医学館の主な目的は、藩内の医学や医療を向上させることでした。そのための医者や医者の子たちの医療技術を習得させる場所として医学館をつくっています。したがって、文館や武館の生徒たちとは違い、医療に関係する人たちを対象とした研修の場所でした。また、医療や薬の製造もおこなわれていました。
Q13 医学館ではどういう勉強をしていたのですか?
医学館の医療は、老人などに漢方薬や牛乳・バターなどを与える一般的なものから、痘瘡(天然痘)予防のための種痘、そして外科手術などの特別な医療もおこなっていました。 これらの特別な医療を担当したのが医学館教授本間益軒(えきけん)と本間玄調(げんちょう)です。玄調は、益軒の養子で親子の関係にあります。玄調は、九州や関西方面で医療技術を習得し、なかでも華岡青洲(せいしゅう)に学んだ麻酔と外科手術によって、乳ガンや脱疽(だっそ・足が腐る病気)など、これまで治すことのできなかった病気を全身麻酔で手術し治すことに成功しています。益軒や玄調に教わった水戸藩の医者たちの医療技術は向上したものと思われます。
華岡青洲は紀州和歌山の出身、京都で医者としての修業を積み、全身麻酔剤の発明により外科医術の水準を高め、日本の外科医術を大きく前進させた方です。その弟子の一人として華岡流外科医術を継いだのが本間玄調です。
Q14 弘道館の「湯殿」と呼ばれている場所はどのように使用したのですか?
「湯殿」は主として藩主専用です。外部から湯や水を運んで浴した場所で、斎戒沐浴(身を清める)の場としても使用されたと考えられています。
Q15 弘道館と偕楽園はどのような関係なの?
弘道館と偕楽園は、どちらも第9代藩主徳川斉昭によってつくられました。弘道館は学問と武術を修業するところ、これに対して偕楽園はゆっくりと休養するところとして、一対の教育施設として構想されていました。この斉昭の構想は、「偕楽園記」の中で「一張一弛(いっちょういっし)」という言葉で表されています。
Q16 弘道館の建物のほとんどはいつ焼けてしまったの?
江戸時代から明治に変わる頃は、日本国内でいろいろな抗争が起こりました。水戸藩内でも考え方が違う人達の間で抗争が起きました。そのひとつに明治元年(1868年)の弘道館の戦いがありました。この戦いで文館、武館、医学館など多くの建物が焼けてしまいました。この戦いのときの弾の跡が、正門や正庁玄関に今も残っています。
Q17 弘道館は、藩校としての期間はどのくらいだったのですか?
弘道館は天保12年(1841年)に開館し、明治5年(1872年)の学制公布により閉館しましたので、藩校としての期間は約30年間です。
Q18 弘道館の石碑にはどうして「旧弘道館」と書かれているのですか?
弘道館は、明治5年(1872年)に閉館になった後、県庁舎や学校の仮校舎として使用されていましたので、藩校当時の弘道館を「旧弘道館」として区別しています。
Q19 左近の桜についてその由来を教えてください。
現在の「左近の桜」は、3代目になります。昭和38年(1963年)に宮内庁から京都御所紫宸殿(ししんでん)の庭の「左近の桜」の苗木(樹齢7年)を頂いて植えたものです。4月の初め頃に見事な花を咲かせます。種類は山桜の一種です。 初代の桜は、有栖川登美宮吉子が、天保元年(1830年)に徳川斉昭と結婚するにあたり、当時の京都御所におられた120代仁孝天皇にご挨拶にうかがった折に、御所の庭に咲いていた「左近の桜」の苗木を天皇から賜ったものです。結婚後の住まいであった江戸小石川(現在の小石川後楽園一帯)の上屋敷に植え替えて育てたものを、弘道館が開館した天保12年(1841年)に記念樹として弘道館に移して植えられました。